台湾国立嘉義高級中学 日本語サークル 王 嘉喧(オウ カケン)先生 体験参加者インタビューレポート

 南三陸町は、東日本大震災で被災した「旧・志津川病院」を2015年12月に「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」として開業させました。
公立病院の再建については、建設費56億円中、約4割にあたる22億円を台湾赤十字(正式名称:中華民国紅十字会総会)に支出していただき実現したという、台湾の皆様からのあたたかいご支援あっての再建でした。病院施設の入り口付近には「台湾のみなさんありがとう」の言葉とともに、中華民国の国旗と南三陸町の町旗、そして「絆」の文字が刻まれた記念碑も設置されています。

(南三陸病院・総合ケアセンター南三陸での記念撮影)

震災後の支援をきっかけに、深い絆で結ばれた台湾と南三陸町。その後も教育プログラムを通して深い交流を続けています。2017年には台湾の関係者の紹介を受けて、初めて台湾国立嘉義高級中学へ訪問し、南三陸町の伝統文化である「キリコ」づくりの体験を行いました。2018年に再度訪問。同年嘉義高級中学の日本語研修団が来町しました。以後、互いに南三陸町と台湾を往来する関係が続いています。

今回は、嘉義高級中学の日本語サークルを担当している王嘉喧(オウカケン)先生に、南三陸町の印象や交流事業での印象などをインタビューさせていただきました。

 

―2017年から交流が始まりましたが、日本語研修団の訪問先に南三陸町を選んでいただけた理由として、何が決め手となりましたか。

台湾の高校は、ほぼ毎年国際教育旅行を実施しています。そのため、日本との学校間交流や生徒たちが日本へ行くこと自体は、そこまで特別なことではありませんでした。しかし、南三陸町では日本語を勉強している生徒たちのために、短期ホームステイと2週間の日本語学習コース、そして、南三陸町ならではの暮らしの体験を提供してくれます。特に、職場体験やさまざまなプログラム体験の実施を通じて実践的な日本語会話の学習ができるため、生徒たちが実際に日本語を使える場面が多いというのも魅力的でした。

さらには、観光協会のスタッフが全行程をアテンドしてくれるため、引率としても全行程を一緒に参加しなくても良いほど安心できるというのも有難かったですね。何よりも、観光協会の皆さんが体験したい側の声(要望)を聴いてくれて、こちらの学ばせたいニーズも踏まえたうえで、各交流活動(大学訪問・現地高校生とスポーツ交流・お祭りの踊り大会出場等)を手配してくれました。これが、私が毎年生徒たちを連れて南三陸町に行く最大の理由です。

 

 (志津川湾夏祭りでの「トコヤッサイコンテスト」出場の様子)

 

―南三陸町との教育プログラムで、どの部分に関心を持ってくださいましたか。

「次世代の交流と教育」こそ、国際交流を長く続けられるキーポイントだと思っています。そのために、どのように南三陸町の高校生たちと密接な連携が取れるかというのはとても興味深いことです。長期計画の交流をするために、どのようなことができるかを一緒に模索していけたらと思っています。例えば、交流時のチューター制度、短中期の交換留学や教職員の相互派遣等、将来的に実行できないかと関心を持っています。

 

―生徒に日本語の学習以外にどのようなことを学んで欲しいと考えていますか。

災難に負けず、逆境に強く、経験したことから教訓も学び、美しい未来のために頑張って生きている南三陸町民の皆さん。私も、実際に南三陸町での学びを体験した生徒たちも、皆さんと共に過ごした時間やその中で得た学びがたくさん心に響いています。ここで命の尊さや何事にも全力で取り組むことの大切さを生徒たちに学ばせたいです。また、受け入れ先のホームステイ体験を通じて、日本人の心を込めた「おもてなし」を感じてもらいたいです。

 

―実際に南三陸町に訪れるようになって、特に印象に残っていることはありますか。

何度も日本を訪れることがあり、いわゆる“日本ファン”の私ですが、南三陸町で「おうち(ホーム)」という感覚を覚え、来るたびに実家に帰った感じがしているんです。佐藤町長だけでなく、国際交流協会及び観光協会の皆さんがいつもあたたかく受け入れてくれていること、さらには、商店街やコンビニでも声をかけてくれる方がいたので、とても驚いて感動しました。

 (町内での交流の様子)

 

―南三陸町での学びを経て、生徒や先生方の中で発見や変化はありましたか。

台湾の北部や中部の子どもたちに比べて、嘉義(中南部)の生徒たちは田舎の出身が多く、教育資源や国際交流の場が比較的に少ない傾向にあります。南三陸町で過ごす2週間の研修は、生徒たちにとって人生の中で貴重な思い出となり、そして前に進むための動力になりました。

帰国後に生徒たちの感想を聞くと「日本の家族ができたので南三陸はすでに自分の第二の故郷だ」と思っている生徒がほとんどでした。さらに、2週間の研修で刺激と感動を受けたことで、数名の生徒が帰国後真剣に日本語を勉強した結果、国の奨学金留学試験に合格し、日本の大学へ留学するまでやり遂げた生徒もいました。南三陸町での体験は、生徒たちの人生を変えたと実感しました。心より南三陸町の皆様に感謝を申し上げます。

 

 (志津川高校の生徒と嘉義高級中学の生徒の交流の様子)

 

―南三陸についてもっと知りたい・深掘りしたいことは何ですか。

南三陸町は、東日本大震災で津波による被害が多かった地域のため、復興を歩んできた町民たちがどうのように立ち直ったのかという点、そして、地域復興の期間を経て、地方創生に携わる方々はこれからどのような取り組みをしていくのか、という点をさらに深掘りしたいと感じています。

また、佐藤町長からのお話の中で、津波襲来の際に防災庁舎の手すりにつかまって幸い生き残ったことを聞きました。いつも笑顔で皆さんに元気を届け、さらに皆さんを連れて前に進まれている町長にとても心打たれました。町長をはじめ、南三陸町民の10年間の歩みをもっと知りたいです。

 

―今後、南三陸町でどのようなプログラムを行いたいですか。

  今までは夏しか連れて行ったことがないので、今後は冬でも生徒たちを連れて行きたいと考えています。日本の中でも東北地方ならではの生業や風習、雪の中での生活やスポーツなども体験させたいですね。

それから、社会人向けの日本語研修プログラムもあったら良いなと考えています。台湾の日本語塾の方もとても興味を持っているそうなので、将来社会人やシニア世代向けのプログラム体験があれば、きっと関心を向けてくれる人が多いはずです。

 (“日本と台湾をつなぐ!” 記念撮影の様子) 

 

 南三陸町の復興の歩みに大きな支援をしてくださった台湾。今後も国際交流や観光プログラム、教育プログラムなどさまざまシーンで連携し、さらなる友好の絆を深めていきたいですね。昨年は新型コロナウイルスの影響で南三陸町にお越しいただくことはできませんでしたが、オンラインを通した交流は続いています。再度、台湾の皆さんを「おかえり」と迎え入れられる日を楽しみに!心からお待ちしております。ありがとうございました!

 

ライター

 大場黎亜氏(おおばれいあ) 
東京都出身。大学生の時東日本大震災をきっかけにボランティアで南三陸町に通うようになり、のちに南三陸町復興応援大使になる。2017年、結婚を機に南三陸町民となり、まちを盛り上げていくための活動にも積極的に関わる。早稲田大学教育学部卒及び教育学大学院を修了しており、専門は敎育・文学・まちづくり・防災。現在株式会社Plot–d代表取締役。

 

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