自然災害と向き合う2日間の語り部ツアー(津波浸水エリアバス車窓案内~午前便~)

■実施概要
【日時】2022312日 11001230
【人数】21名

今回は、3人の語り部の案内の下、震災から12年目を迎えた町の様子を見て・歩いて・話を聴く特別企画「自然災害と向き合う2日間の語り部ツアー」を実施しました。ツアーは3つのプログラムで構成されています。1日目には津波浸水エリアバス車窓案内を午前と午後に行い、2日目はまち歩き語り部を行いました。
住民の数だけ体験談があります。今回のツアーで案内してくださった3人の語り部は、回る場所から話す内容、すべてが異なります。3人のそれぞれの体験談が、皆さんの普段生活している地域で起こりうる自然災害や災害が起きた時の避難計画について、改めて考える機会になれば幸いです。

津波浸水エリアバス車窓案内、午前便の語り部は後藤伸太郎さんです。震災当時は避難所運営に携わり、現在は町議会議員として活躍されている伸太郎さん。避難所の様子やボランティアとの繋がり、町の新しい取り組みや震災遺構について、町の各所を周りながらお話いただきました。

バスはさんさん商店街から出発しました。最初に訪れたのは、ベイサイドアリーナです。伸太郎さんから、震災直後のベイサイドアリーナの役割について、お話いただきました。
「家を流されてしまった人たちは身を寄せる場所がなかったので、たくさんの人がベイサイドアリーナに避難していました。数日後には災害対策本部が立ち上がり、ここは物資置き場にもなりました。また、残念ながら亡くなってしまった方のご遺体を安置する場所でもありました。ここは避難所でありながら、災害対策本部でもあって、遺体安置所でもあったんです」
当時の様子を写真とともに説明しました。写真には体育館のロビーや廊下で過ごす人の様子が。外観だけ見ても広いように感じられるベイサイドアリーナ、ここに溢れるくらい多くの人が避難してきたことが伺えました。
震災直後は携帯電話も使えず、町外はもちろん町内への連絡手段もありませんでした。そのため、町のどこに何人避難しているのか、何が足りなくて困っているのか、把握することも一苦労だったそうです。そんな大変な状況を手助けしてくれたのは、全国からの支援とボランティアの方だと伸太郎さんは語ります。
「当時、町長が毎日記者会見を開き、南三陸町ではこういう物資が欲しいと呼びかけたんです。それを知った日本全国、世界各国の方から、本当にたくさんの物資が届きました。とても感謝しています。ただ、たくさんの物資が毎日来たので、仕分け作業が大変でした。そんなときボランティアさんが来てくれて、届いた物資の仕分けや他の避難所に振り分ける作業を手伝ってくれて、本当に助かりました」
他にも瓦礫の撤去や散乱していたガラスの破片の回収など、町の復旧に力を貸してくれたボランティアの方々への感謝の思いを伸太郎さんは語りました。

当時ベイサイドアリーナ敷地内には、ボランティアの拠点だった「南三陸町災害ボランティアセンター」がありました。2015年3月に閉鎖されるまで、延べ15万人の方が活動してくれたそうです。伸太郎さんはボランティアセンターの跡地を案内した後、ベイサイドアリーナ隣の公園にある「絆の碑」を案内しました。「絆の碑」はボランティアと南三陸町の絆・繋がりをずっと残しておこうという思いから、ボランティアの有志の方が設置してくれた記念碑です。
「震災直後には、ボランティアの方が炊き出しをしてくれたんです。電気も水もない状態でしたので、温かい料理が食べられて、本当に幸せだなと感じました」
伸太郎さんは「絆の碑」を見ながら、当時の思い出を噛み締めるように語りました。参加者の方は、伸太郎さんの話から、普段当たり前のことが困難な状況であったことを改めて知ったようでした。

バスに乗って、次に訪れたのは、今は役割を終えた仮設魚市場です。漁業の盛んだった南三陸町ですが、震災で漁船や漁具を失い、仕事を再開できない漁業者が大勢いました。元々あった魚市場も震災で壊滅したため、漁業を続けるか悩んだ方もいたそうです。そんな中での仮設魚市場オープンは、漁業に携わっていた方にとって、漁業再建への大きな希望となりました。新しい魚市場が建設されるまで利用され、現在は福興市をはじめとした町内イベントの会場として利用されています。
旧仮設魚市場から海の方を見ると、荒島へと続く桟橋があり、島の入り口には赤い鳥居が立っています。荒島の頂には荒嶋神社があり、航海の安全を祈願する場所として地元の漁業者から大切にされてきたそうです。
「実はあの鳥居も津波で流出したんです。地元の子供たちがこの場所の絵を描くともうないのに鳥居を描くんです。やはりこの場所には鳥居が必要と感じ、この辺りに住んでいた漁師さんが中心となって寄付を募って、鳥居を再建しました」
「昔あったものを取り戻すという復興も進んできましたが、新しい取り組みも始まりました。その1つが南三陸ワインプロジェクトです」
南三陸ワインプロジェクトは、町内で栽培したぶどうを使ってワインを造るプロジェクトです。旧仮設魚市場の近くに「南三陸ワイナリー」を建設し、ワインの製造や販売、レストラン営業を行っています。最近は、製造したワインを海中熟成させたり、地元企業とタッグを組んだクルージングツアーを企画したりと、町の新しい観光コンテンツとして注目されています。
参加者の方は海沿いを歩きながら伸太郎さんの話に耳を傾けました。豊かな海を眺め、潮風の匂いを嗅ぎ、漁船や波の音を聴きながら、町の復興について知れたようです。

最後にバスはさんさん商店街へと帰ってきました。さんさん商店街から、建設中の道の駅(震災伝承施設)の傍らを通り、復興祈念公園へと歩きました。復興祈念公園には、震災遺構である防災対策庁舎があります。
防災対策庁舎は南三陸町役場の行政庁舎の1つで、震災や津波などの災害時に、防災の拠点としての役割を担うために建設されました。しかし、当初想定されていた6mを大きく上回る約16mの津波は庁舎を飲み込み、その場にいた町職員を含む計43人が命を落としたのでした。
この語り部の前日が3月11日だったこともあり、入り口にはたくさんの献花が置かれていました。庁舎を真下から見上げると、折れ曲がった鉄骨やちぎれたケーブル、湾曲したフェンスが当時の凄まじい状況を感じさせます。

当初、町では防災対策庁舎を解体することに決めました。しかし、その後震災遺構として2031年まで県有化されることが決まります。伸太郎さんは独自で「防災庁舎について考える会」を立ち上げ、2032年以降の防災対策庁舎をどうするかについて、町民と意見を交わしているそうです。伸太郎さんの話から、震災遺構を保存していくことの難しさを感じるとともに、震災から11年が経過した今も防災対策庁舎がその姿を残し、津波の恐ろしさを伝え続けていることはとても貴重なことだと思いました。

その後、復興祈念公園の頂上まで歩き、さんさん商店街へと戻って、午前便の語り部は終了しました。
参加者の方からは
「震災直後の南三陸町にボランティアできたことがあり、その時はまだ道もなかったので、町の復興をとても強く感じた。復興祈念公園が開園する前、すごく嵩上げして公園を作っている様子を見ていたので、実際に歩けて感慨深かった」
「防災対策庁舎を間近で見て、津波の力、水の力の恐ろしさを感じた。怖いものだってことをちゃんと認識して忘れないようにしないといけないなと思った」
との声がありました。

震災によって、町は0からのスタートとなりました。震災前からあった産業・建物の復活に加え、新しい取り組みや人との繋がりが町を盛り上げ、復興を後押ししてくれたのだと思います。今回の語り部では、町議会議員という視点から震災当時の様子や復興の様子を感じることができました。

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